「シェイプ・オブ・ウォーター」を観た!
1962年の冷戦下のアメリカ。政府の研究施設で清掃員として働く発話障害の女性のイライザは南米から連れて来られた半魚人を目撃し、少しずつ心を通わせるようになる。そして彼女は彼が実験材料として扱われていることを知る。
「パンズ・ラビリンス」「パシフィック・リム」などでおなじみのギレルモ・デル・トロ監督最新作のこの作品。
そして今日発表になったアカデミー賞で監督賞と作品賞など計4部門を受賞したそうで!
ぼく的には凄く好きな作品だったので、めちゃ嬉しかったですね〜
まず誰もが認めざるを得ない点として、美術やポスターアート、「彼」の造形など、映画を観る際の全てのイメージづくりがうまくいってるな〜と思いました。
どのポスターも凄くキレイです、、!
北斎の絵が壁にある主人公イライザの部屋とか、
「彼」の心が動いているのか、、?という時に体のラインが青く光るのとか一つ一つが全部美しくて、、
そこにデルトロ監督の凄みがあるような気がしました。
実は話の構成はむしろシンプルで、なんなら既視感すら感じるのは、これがおとぎ話であるから。
そう言っていい位に、広く深い射程の話だと思います。そういう話のデメリットとしては、単純に話運びが鈍重になりやすい、予想がつく、などあると思いますが、この映画はそこをアイデアとイマジネーションでカバーしていると思います。(ここでいうアイデアとはサスペンス的、ホラー的、ミュージカル的、なシーンなどを混ぜること)
でもただの昔ながらのおとぎ話というわけではなく、現代的なアップデートもされています。
主人公である発声ができない女性が示している現代的な社会問題については言うに及ばず、成功へのオブセッションに囚われた古きアメリカ的価値感、また社会的マイノリティで更に安定した経済状況ではない絵描き、、
あのラストの傷口の演出ひとつで色んなことを雄弁に語るのとか、、
すごい良い映画観たな〜っていう余韻があってよかったです
映画ファンにおける『ニュー・シネマ・パラダイス』問題について
〈ネタバレ注意〉
1988年に公開されたイタリア映画。
監督はジュゼッペ・トルナトーレ。印象的な音楽はエンニオ・モリコーネが担当。
なんとなく最近この映画について考えることがあって、まとまったので書いておきますね。
映画ファンはこの問題は誰しもが考えざるを得ないだろう。(そんなことはない。)
この映画のラストシーンは、映画館でスクリーンを観ながら号泣する主人公の顔が映され、モリコーネのこれでもかというほどメロディックかつエモーショナルな劇伴(とも言っていいのかわからない音楽)が印象的だ。
まぁつまりだいぶエモい。
映画が好きなひとはこんなシーン絶対にグッとくると思う。だってラストシーンの主人公は、ほぼ今映画を観てる自分と重なり合うから。でもそんな映画を作った作り手のドヤ顔が透けて見える、あざといと感じてしまい、瞬時に興ざめしてしまう。
これが俗に言う(別に言わない)『ニューシネマパラダイス問題』である。
ぼくが考えたのは、たぶん、映画リテラシーが高い人ほどニューシネマパラダイスは楽しめない傾向にあるのかも、と思った。
画面からなにか意志を感じ取る能力に長けてるひとは、作り手のドヤ顔さえ感じ取ってしまい楽しめないのではと思った。
つまりこの映画は、映画が好きな人の為に作られた話であるのにもかかわらず、映画が好きな人には受け入れられないという皮肉な構造を持っている気がする、、
ぼくなんかは恐らく映画リテラシーが低いので、高校一年生の時なんかは全く楽しく観ていましたが、、、なんなら別に今も好きだし、、
これはニューシネマパラダイスだけに限った話ではなくて、いわゆる邦画でありそうな「難病もの」なんかも、観客が作品の外にある汚い思考を察知してしまう(もしくは勝手にそう思い込む)傾向にあるものだと思う。
なんかそう考えると評論家の人の評価が良くないのも納得できませんかね、、
ただまぁそういう風に意図を察知される程度の大味な映画は一般に「下手な映画」っていうことなんだろうなぁ、、
みたいなことを考えてました。
トリトブの手記 はじめに
こうやってブログ書き始めるのには、
長〜い長い時間(1年間)がかかりました。
なにがそんなにぼくの足を引っ張っていたのかとういうと、自意識という魔物です。
つまり、
「今お前は映画評論家ぶって、浅〜〜い知識でカッコつけた文章を垂れ流すブログを始めた」
と、未だに僕に話しかけてる、かなり手強い、多くの人間が戦っているあの魔物のこと。
ぼくとあの魔物との戦争は1年前、大学1年の夏休みに毎日家で、Netflixを24時間稼働させていたころ、はじまりました。
「あっ、この人、すごいめんどくさい。」
そう思ったあなた、ぼくも今同じ気持ち。
でもここまで書いたから書くよ、だって、1年間もかかったから。
ぼくは大学入試に無事失敗し、希望では無い大学に入学を決めた時から、たくさん(でも無い)映画を見始め、映画評論家である町山智浩さん、宇多丸師匠、高橋ヨシキさんなどなどの、映画の話を聞いていて自分も映画を理解したいと思い、感想をノートに書き始め、その内に人と感想を分かち合いたいと思うようになった。
あ、こういう時Twitterで呟けばいいのか
実名ではないアカウントを作り、誰か映画好きな人と話せることを期待し、例の魔物を全力で封じ込めながら、ポツポツと自分なりの感想を呟くぼく。
……………なにもおこらない
世界中の映画の情報で毎日猛スピードで働くタイムラインとは別に、打って変わって通知欄は、水を打ったようなというよりは、もはや水は打たれるまでもなく、静か。
まぁそれもそうで、人と会話するのはフォローした時のひとこと挨拶のみ。フォローさせていただいた人の感想に共感しても、急に見ず知らずの人にコメントすることができず、イイネするのみ。
自分からは行かずに、人からコンタクトを求めるぼくがバカだった。
そーこで!
考えたのが、ブログを書くこと。
もともと手帳に書いていた感想をまとめて、ブログにすれば共感してくれた人と話せる(話しかけてくれる)ようになるかも!という完全に受け身な姿勢はTwitterと変わってはいないものの、文が長くなりがちなぼくは、ブログの形式の方が性に合っているキガスル……
もちろん例の魔物は「ブログを書く」と聞くやいなや、いつもの数十倍ものエネルギーを放出し、普段は魔物も疲れるから出さない派手な技を繰り出し、壮大な(ハンスジマーの)音楽と共にぼくの頭を暴れまわる。
その期間1年間。
魔物との長期戦でボロボロなぼくは、もはや考える脳みそを失い、魔物の存在をあっけなく忘れ、ようやく今日ブログを始められた、、!
という次第です。長かった。
できたらトリトブという名前のTwitterをフォローして話しかけて欲しいです。ぼくも話しかけます。
超駄文、超長文失礼いたしました。
これからよろしくお願いいたします。