映画ファンにおける『ニュー・シネマ・パラダイス』問題について
〈ネタバレ注意〉
1988年に公開されたイタリア映画。
監督はジュゼッペ・トルナトーレ。印象的な音楽はエンニオ・モリコーネが担当。
なんとなく最近この映画について考えることがあって、まとまったので書いておきますね。
映画ファンはこの問題は誰しもが考えざるを得ないだろう。(そんなことはない。)
この映画のラストシーンは、映画館でスクリーンを観ながら号泣する主人公の顔が映され、モリコーネのこれでもかというほどメロディックかつエモーショナルな劇伴(とも言っていいのかわからない音楽)が印象的だ。
まぁつまりだいぶエモい。
映画が好きなひとはこんなシーン絶対にグッとくると思う。だってラストシーンの主人公は、ほぼ今映画を観てる自分と重なり合うから。でもそんな映画を作った作り手のドヤ顔が透けて見える、あざといと感じてしまい、瞬時に興ざめしてしまう。
これが俗に言う(別に言わない)『ニューシネマパラダイス問題』である。
ぼくが考えたのは、たぶん、映画リテラシーが高い人ほどニューシネマパラダイスは楽しめない傾向にあるのかも、と思った。
画面からなにか意志を感じ取る能力に長けてるひとは、作り手のドヤ顔さえ感じ取ってしまい楽しめないのではと思った。
つまりこの映画は、映画が好きな人の為に作られた話であるのにもかかわらず、映画が好きな人には受け入れられないという皮肉な構造を持っている気がする、、
ぼくなんかは恐らく映画リテラシーが低いので、高校一年生の時なんかは全く楽しく観ていましたが、、、なんなら別に今も好きだし、、
これはニューシネマパラダイスだけに限った話ではなくて、いわゆる邦画でありそうな「難病もの」なんかも、観客が作品の外にある汚い思考を察知してしまう(もしくは勝手にそう思い込む)傾向にあるものだと思う。
なんかそう考えると評論家の人の評価が良くないのも納得できませんかね、、
ただまぁそういう風に意図を察知される程度の大味な映画は一般に「下手な映画」っていうことなんだろうなぁ、、
みたいなことを考えてました。